ヨネモトは昭和35年、専業主婦だった百々子さんが嫁ぎ先の果物屋の隅でパンの販売をしたのが始まりである。
そのきっかけは、なんと少女時代にまでさかのぼるのかもしれない。話をうかがうと大いにうなずける。人生とは、偶然の点の積み重ねではなく、一本の線でつながっているのではないかと思われるほど、百々子さんが駆け足で語った半生は、いつか読んだ何かの小説を思い起こさせるようで懐かしい気がした。
百々子さんの実家は大森で鮮魚店を営んでいた。女学校を卒業していすゞ自動車で秘書の仕事についたが、ここで後に夫となる米本清之助さんと出会うのである。その話は後述するとして、戦時中の思い出は、昭和19年に小学6年だった弟 たちの学童疎開の寮母として富山県氷見市の寺で生活したことである。
「親は死んでもいいからおまえたちは生き延びろ」とは当時の親たちの切実な気持ちだったのだ。近所の人たちに「百々子さんが子どもたちといっしょに行ってくれるなら安心」と言われ、百々子さんは「わたしは姉さんなのだ。この子たちの面倒を見よう」と心に決め、子どもたちといっしょに氷見市へ向かった。寺小屋では、小学6年の学童28人の受け持ちになり、勉強を教えたり、まきを運んだり、洗濯したりという忙しい生活だった。翌年3月に6年生は卒業というので東京へ帰ったが、百々子さんは5年生といっしょに氷見に残った。そして4月、京浜地区が大空襲により、大森の焼け野原と化したのである。このとき実家も焼けてしまったのだが、富山にいた百々子さんには家族の無事を知るすべもなかった。
「わたしは富山にいて、一時、家族とは音信不通になってしまったのね。日本はおしまいかな、天涯孤独かなと思いました。2カ月後、東京で怖い目にあった3年から6年までの子どもたちがこちらに来ました。3年生なんて、あまりにも小さくて涙が出たわよ。この子たちを死なせないぞという思いで、1年くらい一緒に生活していました」